~2024年5月30日から2024年8月20日までのヨーロッパ周辺青春旅行記~
コブレンツには、5月31日(金)、6月2日(日)~6月5日(水)の1泊飛んで3泊4日滞在しました。(6月1日はコブレンツを起点にニュルブルクリンクへ24時間耐久レースを見に行ったために飛び石のような滞在をしています。)
まえがき
2024年6月5日、その日は曇り空から始まり、大雨に見舞われるという天気の中、ドイツ・コブレンツで旧市街地を歩き、ライン川クルーズに乗船し、その後エーレンブライトシュタイン要塞を訪れてきました。事前に「ドイツの夏は湿度が低く、最高気温は24度前後、近年では温暖化の影響で30度を超えることもある」という情報を得ていたのですが、この日のコブレンツは午前中の気温が15度、最高気温は22度。曇りから小雨、そして大粒の雨、また小雨という変わりやすい天気で、外出を満喫するにはなかなか厳しい日でした。
とはいえ、コブレンツといえば有名な「ドイチェス・エック(ドイツの角)」があり、モーゼル川とライン川が合流する様子が、この雨の影響によりはっきりと目視できる状態だったので、その様子もこのブログでご紹介します。
初日に観光案内所で入手したコブレンツ市内の地図を片手に出発。グーグルマップは便利ですが、ネット環境があってこそ活躍するツールなので、紙のマップはありがたい。
コブレンツの歴史
WIKIPEDIA:ドイツ版コブレンツは、ラインラント=プファルツ州に属する、ライン川とモーゼル川のほとりに位置するドイツの都市で、紀元前8世紀頃にネロ・クラウディウス・ドルトス(Nero Claudius Drusus)によってローマ軍の駐屯地として建設されました。
コブレンツの名称は、ラテン語の「(ad)confluentes:コンフルエンテス」に由来し、「合流点」を意味します。実際の合流点は現在「ドイツの角」として知られ、ドイツ統一のシンボルとして皇帝ヴィルヘルム1世の騎馬像が経っています。
コブレンツはライン川とモーゼル川の合流点に位置し、古くから戦略的な要衝として、さまざまな国の支配を受けてきました。この日は前日の雨の影響でライン川が泥水のように濁っていたため、澄んだモーゼル川との合流地点がくっきりと視認できました。テムズ川やナイル川のように、もともと濁りがちな川なのかと思ったのですが、後日ネットで見た写真では透明感のある水面が広がっていて、どうやら珍しい光景だったようです。この日に撮影した「濁りのライン川」は、ある意味では貴重な1枚かも知れません。
古代ローマ帝国(1世紀~5世紀)
ウィキペディア:コブレンツ(日本版)
紀元前55年にユリウス・シーザーが指揮するローマ軍がライン川に到達し、軍事拠点の準備を開始しました。紀元前9年頃、コブレンツの地にはローマ軍が「カステルム・アプード・コンフルエンテス(“Castellum apud Confluentes”)」(合流地点の砦)として要塞を築き、ライン川とモーゼル川の合流地点を守る拠点として発展しました。ローマの支配は5世紀まで続きましたが、西ローマ帝国の衰退とともにゲルマン民族の支配に移っていきました。
フランク王国(5世紀~843年)
ローマ帝国の崩壊後、ゲルマン系のフランク人がコブレンツを支配しました。特にメロヴィング朝やカロリング朝の下でキリスト教が普及し、教会の影響を受けてこの地域の文化基盤が形成されました。882年には、ヴァイキングによって略奪され、一時的に荒廃しましたが、その後復興を遂げます。843年のヴェルダン条約によってフランク王国は分裂し、コブレンツは東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)に属することになりました。さらに925年には、ロタリンギア(ロレーヌ地方)が東フランク王国に正式に編入され、コブレンツもその一部として発展を続けました。
神聖ローマ帝国(962年~1806年)
神聖ローマ帝国の成立に伴い、コブレンツもその一部として組み込まれました。この間、コブレンツは大司教領として繁栄し、中世のキリスト教信仰の中心地となりました。しかし、帝国内での支配権は一部貴族の間で移動しました。
フランス革命・ナポレオンの統治(1794年~1814年)
・1794年コブレンツ占領
フランス革命(1789年~1799年)が勃発すると、コブレンツはフランスから逃れてきた王党派や亡命者貴族たちが集まる拠点となりました。亡命貴族の中には王政復古を目指す計画を進める者たちも多く、コブレンツは革命の混乱から逃れてきた封建領主にとって重要な地でした。しかし、フランス革命軍が拡大を続け、1794年にマルソー将軍率いるフランス軍がコブレンツを占領しました。
・1801年リュネヴィル条約
リュネヴィル条約により、ライン川西岸地域が正式にフランス領となり、コブレンツは新設されたライン=エ=モゼル県の首都に指定されました。ナポレオンはライン川をフランスの国境として確保することで、ライン川の支配権を強化しようとしました。
・1814年ナポレオン失脚とウィーン会議
1814年、ナポレオンが失脚し、連合軍(ロシア軍など)がフランス領のライン川西岸地域を占領しました。同年、ウィーン会議でヨーロッパの領土をナポレオン戦争(1803年~1815年)以前の状態に戻すため、ライン川周辺の領地がプロイセンに割譲され、コブレンツもプロイセン領に編入されることが決定され、ドイツ統一までの間プロイセン王国の一部となり、特に軍事要塞としての重要性が高まりました。
プロイセン王国(1815年~1871年)
・1834年ドイツ関税同盟
ドイツ関税同盟が結成され、多くのドイツ諸邦がプロイセンの経済圏に加わり、プロイセンの影響力が強まりました。
・1866年普墺戦争
プロイセンとオーストリア帝国の間で、ドイツ統一の主導権を巡る戦争が勃発しました。戦争に勝利したプロイセンは、オーストリアの影響を排除し「北ドイツ連邦」を設立しました。
・18701~871年普仏戦争
プロイセンはフランスと戦争状態に入り、他のドイツ連邦の協力を得て勝利しました。この戦争の勝利により、ドイツの統一が決定的となり、1871年にドイツ帝国が成立しました。
ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、ナチスドイツ(1871年~1945年)
・1871年ドイツ帝国の成立
普仏戦争での勝利後、1871年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿の鏡の間で初代ドイツ皇帝(カイザー)に即位し、「ドイツ帝国」が建国されました。このドイツ統一によって、コブレンツは正式にドイツ帝国の一部として統治されることになりました。
・1914~1918年第一次世界大戦とヴァイマル共和国の成立
第一次世界大戦で敗北したドイツ帝国では、1918年に帝政が崩壊しました。これにより、ドイツは民主政体であるヴァイマル共和国を設立し、プロイセン王国も廃止されました。この時期、コブレンツは連合国の占領地域となり、1923年から1929年まではフランス軍が駐留していました。
・1933年~1945年ナチス・ドイツ時代
1933年にナチス政権が成立すると、コブレンツはナチス・ドイツの一部として統治され、第二次世界大戦の終戦までドイツ領として続きました。
フランス占領地域(1945年~1949年)
・1945年第二次世界大戦後の分割占領
第二次世界大戦の終戦後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国によって分割占領されました。コブレンツはフランス占領地域に編入され、戦争の被害からの復興と再建が進められました。
・1946年ラインラント=プファルツ州の成立
フランス占領地域内での行政整理により、1946年にラインラント=プファルツ州が設立され、コブレンツはこの新しい州の一部となりました。戦後の困難な状況の中で、インフラの再建や生活基盤の復興が重要な課題とされ、コブレンツもその復興計画の中心の一つとして位置づけられました。
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と現在のドイツ(1949年~現在)
・1949年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立
第二次世界大戦後、1949年に占領政策の終了とともにドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し、コブレンツを含むフランス占領地域はドイツ連邦共和国の一部に正式に編入されました。西ドイツ時代、コブレンツはラインラント=プファルツ州に属し、戦後秩序の安定化と民主主義の復興が進み、コブレンツも戦後の新しいドイツ連邦共和国の中で再び平和と発展の道を歩み始めました。
・1990年ドイツ再統一
1990年に東西ドイツが再統一され、コブレンツも統一ドイツの一都市となりました。この再統一により、東西間の経済・文化交流が進み、コブレンツも統一後の新たなドイツ文化を取り入れながら発展を続けています。
WIKIPEDIA:コブレンツ(ドイツ版)
WIKIPEDIA:フランク人
今回、ブログを書くにあたってさまざまなことを調べていくうちに、ヨーロッパの歴史が陸続きの縄張り争いによって築かれてきたことを改めて実感しました。コブレンツの支配も、時代の流れと共にローマ、フランス、ロシア、そしてドイツと移り変わってきたことに驚かされます。学生時代に世界史を学んだ際は、テストのための暗記としか感じていませんでしたが、今回調べたことを通じて、「百聞は一見に如かず」という言葉の意味を改めて深く感じています。
コブレンツの旧市街を散策
AM 10.00
この日は、エーレンブライトシュタイン要塞に行くことがメインで、後は行き当たりばったりに散策をすることにしたので、とりあえずコブレンツ駅近くの宿からドイチェスエックに向かうべく地図を片手に歩き始めました。
平日の水曜日、天気のせいなのか時期的なものなのか観光客も人通りが少ない印象です。
海外旅行では荷物を極力持たず、必要があれば現地で調達をするスタイルの私ですが、今回は3ヶ月弱の滞在にも関わらず日用品を持参していないことに気づき、目に入った「WOOLWORTH」というお店に入りました。円安もあって€1.00ショップのようなお店を期待していたものの、世の中そう甘くはなかったです。
このお店では、爪切り€3.00(510円)、ピンセット€1.50(255円)、チェリーコーラが€1.00(170円)でした。
チェリー味のコーラが気になり購入したところ、味はドクターペッパーに近い感じでした。「ドイツ製の爪切り!」と言うとなんだか高級感がありそうですが、まぁ実際は日本でよく見る日用品の爪切りです。
「afri cola」はドイツ製のコーラで、カフェイン濃度が250mg/lとかなり高め。ドイツ国外ではほとんど販売されていないそうです。今回はそのことを知らず飲まずじまいでしたが、コブレンツを訪れる機会があれば、是非お試しあれ!
Geresplatz(ゲーレスプラッツ)
旧市街地の中心に位置する広場で、コブレンツの歴史と文化を象徴する場所です。
考古学的な調査によると、中世にはこの地域は未開発で、カストル修道院(後のイエズス会修道会)に属していました。18世紀末にコブレンツがフランス領となった際には「ヴェルト広場」と呼ばれていた時期もありました。さらに、普仏戦争期にはコブレンツ第8弾軍団の司令官を務めたアウグスト・フォン・ゲーベン将軍にちなみ、「ゲーベン広場」として記念碑も設置されました。しかし、第二次世界大戦後にはゲーベン記念碑は撤去され、広場は「非軍事化」されました。1976年に、地元出身の著名な歴史家・作家であるヨーゼフ・ゲーレスの名前にちなんで「ゲーレスプラッツ」と改称され、現在の名前が定着しています。
広場には1992年に設置された「ヒストリエンゼーレ」という噴水があり、コブレンツの歴史を10の時代に分けた彫刻で表現しています。
出典:visit-koblenz-de regionalgeschichte.net
訪れた時は特に意識せず、散策途中の噴水がある広場くらいにしか思っていませんでしたが、実はこの広場も観光名所のひとつのようです。旧市街地ツアーもあるので、時間があればぜひ参加してみると良いかも知れません。この日は天気が悪く、周囲には人影も少なくて、少し暗い雰囲気。治安が悪いという印象は特にありませんが、観光客が多い時ならまた違った印象を受けるかもしれません。
コブレンツ・アドベンチャーチケット購入
コブレンツの現地限定のSeilbahnアドベンチャーチケットを見つけたので購入しました。このチケットにはライン川クルージングの往復乗船、ケーブルカーの往復乗車、さらにエーレンブライトシュタイン要塞への入場券がセットになっており、料金は€29.00(約4,950円)でした。
公式サイト:Seilbahn
「クルージングツアーの申し込み場所は川の近くにあるはず!」と高をくくって川沿いを歩いていると、キオスクを発見。お店の前にツアー情報が掲示されていたので、そこでチケットについて尋ねてみましたが、実際の販売場所はこのキオスクではなく、ケーブルカー乗り場近くにあるとのこと。さらに歩き続けます。
ルートヴィヒ美術館
ドイツ騎士団最初の支部として設立された歴史ある建物「ドイチェレンハウス」内にあるルートヴィヒ美術館は、現代美術を中心に展示を行う施設です。この建物は1990年から1992年にかけて美術館として改装され、1992年9月18日に正式に開館しました。
設立の背景には、コブレンツ生まれで美術史家かつ実業家である著名なコレクター、ピーター・ルートヴィヒの存在があります。彼は妻のイレーネと共に、ポップアートをはじめとする現代美術コレクションの収集で知られており、その膨大なコレクションを基に、ドイツ国内外の複数の美術館設立を支援しました。
1986年、ピーター・ルードヴィヒはコブレンツ市の名誉市民に選ばれ、この際に「自身のコレクションの一部を市民に公開する美術館を設立したい」という構想を公に表明しました。この構想を受け、ルートヴィヒ夫妻の貴重なコレクションが寄贈され、美術館が誕生しました。
出典:LUDWIGMUSEM KOBLENZ
「ルートヴィヒ美術館」の正面に飾られている鉄の棒で構成されたオブジェクトは、フランス人アーティストであるベルナール・ウェネによる彫刻作品です。ウェネは、数理的な美学や行く南嶽的構造を探求する作風で知られ、シンプルながらも複雑な線や形を組み合わせた作品を多く手掛けています。
出典:LUDWIGMUSEUM KOBLENZ 屋外彫刻
ルートヴィヒ美術館は、コブレンツ市長との合意に基づき、ウクライナからの難民に対しては入場無料となっています。これは、「世界で最も美しい装飾品には、それだけの価値にふさわしい経緯があるべきだ」という理念を象徴しているようです。
出典:LUDWIGMUSEUM KOBLENZ
旧市街地を進んでモーゼル川沿いを歩いてみたものの、チケット売り場はまだ見つからず…。しかし、モーゼル川とライン川の合流地点周辺では、徒歩や自転車で楽しめる魅力的なルートが多くあります。その道中、気づけばライン川沿いの道に出ていて、そこでようやくケーブルカー乗り場の下にある「Seilbahn」のチケット売り場に到着しました。
ライン川クルーズ 所要:2時間
PM 13.10
チケットを購入したのが13時04分だったため、タイミング良く始まるクルージングツアーに乗船することができました。この日は雨の影響で川の水かさが増しており、チケット売り場では運行中止になる可能性もあると伝えられていたのですが、出向するとのことで乗船開始です。
乗船後はデッキに出て、これからの雨に備えパラソル付きの席を確保しました。このクルージング以外にも複数の船が運航しており、私のように数時間の往復ツアーを楽しむ人もいれば、ライン川を観光しながら片道移動する水上バスの乗客もいるようです。私が乗船したのは2時間のクルージング船用だったため、停泊のないクルージング船用船でした。川上からエーレンブライトシュタイン要塞を眺めながら、「水上から攻めるバイキングの視点はこんな感じなのかな」と想像しつつ、特別な景色を満喫しました。(実際には、エーレンブライトシュタイン要塞がバイキングに略奪された記録はないですが)
PM 13.38
クルージングが出発しました。
船上でのランチを楽しもうとメニューを手に取ったものの、その内容と価格に驚愕!ドイツ語で書かれたメニューを読み解くのに苦労する間もなく、目に飛び込んできたのは想像を超えた値段設定。「この料理にこの値段を出すべきか?」と葛藤しながら数分間考えた込んだ末、結局スパークリングワイン一杯だけを注文しました。旅を通して、物価の高さと自分の価値観と折り合いをつけることが何度もありました。日本では「海外のマックが3000円する」というニュースを目にすることもありますが、実際に体験すると、日本の物価の低さがより鮮明に感じられます。この状況が果たして先進国として健全なのか?という疑問も沸きます。
給料の伸び悩み、増え続ける社会保険料の負担…。未来の子供たちに明るい希望を描くことができる社会であるといいのですが…
出発してからドイツ語のアナウンスの後に英語のアナウンスが流れます。出発して10分後、まず右手に見えてきたのは、「ドイツ連邦軍の情報技術機器および使用に関する連邦局」の建物と、その前にあるウォーターゲージハウス。この時はそれらの建物がなにか知らなかったのですが、アナウンスの説明でなんとなく写真を撮った後、後日調べてみると歴史のある建物でした。
ドイツ連邦軍の装備情報技術使用局(BAAINBw)
左手に見える「ドイツ連邦軍装備情報技術使用局(BAAINBw)」が使用する建物は、プロイセン時代に建てられた政府庁舎で、1902年から1906年にかけて建設されました。この建物の設計には、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の影響が色濃く反映されており、中世ホーエンシュタウフェン朝を想起させるネオロマネスク様式が採用されています。
参考:bundeswehr.de
ウォーターゲージハウス(Pegelhaus)
真ん中に見える青い屋根の建物「ウォーターゲージハウス」は、もともとライン川のクレーンとして建設されました。1609年から1611年にかけて、トリーア選帝侯ロタール・フォン・メッテルニヒが設計し、ジュリッヒ要塞の建築家ヨハン・パスクアリーニが建築を担当しました。この建物は、1839年まで川に設置されたクレーンとして機能し、その後は水位測定施設として使用されるようになりました。現在ではカフェ兼レストランとして利用されています。また、建物の外壁には、さまざまな時代の洪水記録が刻まれており、外に設置された青い水位計の時計は、ライン川航行における22の重要地点の1つとしても機能しています。
出典:round-um-koblenz.de visit-koblenz-de
この2つの建物は、コブレンツの歴史や建築の多様性を象徴するスポットとして、観光名所となっております。
以前、ロンドンのテムズ川の水面を撮影した際に、その濁った様子に残念な気持ちになったことがあります。同じようにライン川も濁っていたため同じ印象を抱きましたが、これは雨の影響による一時的なもので、晴れた日はライン川は透明とまではいかなくとも澄んだ美しい川のようです。
選挙宮殿
建設と名前の由来(18世紀)
コブレンツ選挙宮殿は、ドイツ南西部におけるフランス初期古典主義の最も重要な宮殿建築の1つです。
・建設開始: 18世紀初頭(1777年から1786年)、神聖ローマ帝国の選帝侯クレメンス・ヴェンツェスラウスによって建設されました。選帝侯(Kurfürst)は皇帝を選出する役割を持つ7人の高位聖俗貴族の1人であり、この宮殿は彼らの政治・社会活動の中心として建てられたことから「選挙宮殿(Kurfürstliches Schloss)」と呼ばれるようになりました。
・設計と特徴: フランス人建築家アントワーヌ=フランソワ・ペイレの設計によるバロック様式で、豪華な装飾と広大な庭園が特徴。宮殿は壮麗な外観でコブレンツ市のシンボル的存在でした。
フランス占領期(1794~1814年)
・占領と変化: フランス革命軍の侵攻により、選帝侯が領地を離れ、宮殿は兵舎や軍病院として使用されました。
・未完成の内装: 宮殿の内装は完成することなく、家具や装飾品は他地域へ移送されました。
プロイセン統治期(1815~1918年)
・行政拠点: ウィーン会議後、プロイセン領となり、宮殿は行政機関や裁判所、軍事施設として利用されました。
・王室の利用: プロイセン王室や皇帝ヴィルヘルム1世がライン地方滞在時に使用し、アウグスタ皇妃によって庭園が整備されました。この庭園は「ラインのポツダム」と呼ばれ親しまれました。
・第一次世界大戦中: 一時的に皇帝ヴィルヘルム2世の大本営としても使用されました。
ヴァイマル共和政期(1919~1933年)
・博物館設立: 1921年、宮殿内に「宮殿博物館」が開設され、美術品や考古学的収蔵品が展示されました。この博物館は現在の中部ライン博物館の起源となりました。
・占拠事件: 1923年にはライン共和国運動支持者に一時占拠されました。
ナチス時代(1933~1945年)
・ティングシュテッテの設置: 1935年、宮殿前庭に集会場「ティングシュテッテ」が設置され、ナチスのプロパガンダ活動に利用されましたが、効果が乏しく短期間で中止されました。
戦後の復元と現代の利用
・戦時の破壊: 第二次世界大戦中、1944年の空襲でほぼ全壊し、外壁と地下室のみが残存しました。
・復元作業: 1950~1951年に外観が再建され、内部はモダンなデザインが施されました。1998年には18世紀の白灰色の外観に修復されました。
・現代の用途: 宮殿は現在、連邦政府のオフィスビルとして使用される一方、庭園は市民や観光客の憩いの場となっています。
出典:WIKIPEDIA:選挙宮殿(コブレンツ)
選挙宮殿のライン川沿いにある銅像は、神聖ローマ帝国のカール大帝(シャルルマーニュ)を象徴するものです。ライン川流域とドイツの歴史的文化を称える象徴的なモニュメントとして建てられています。
カール大帝は中世ヨーロッパにおいて重要な統治者であり、彼の業績は神聖ローマ帝国の基盤を築いたものとして高く評価されています。
レーベンベルガー・ミューレ
もともと水車小屋として利用されていた施設で、その後、製粉所に改築されました。18世紀から19世紀にかけて、ライン川の水力を利用するために多くの水車小屋が設置され、この水車小屋は、製粉業をはじめとする工業活動に利用されており、ライン川沿いの水流を動力源として使用していました。
その後、1890年代に入ると、製粉業の発展に伴い、製粉所として改築され、ライン川沿いにベルリン出身の建築家カール・エーレンベルクの設計で古典的な建築様式工場施設が建設されました。
外観は象徴的な城のような外観を持ち、その建築的特異性が認められ、ユネスコ世界遺産に登録されているライン渓谷中流上部の一部として保存されています。
出典:rheinsteig-de
Koblenz Brewery GmbH(コブレンツ醸造所)
1689年にドイツのコブレンツで創業した歴史的なビール醸造所で、その初期はコブレンツ旧市街にある醸造所でビールを作っていました。1885年にはコーニヒスバッハに移転し、新たな醸造施設を設立しました。この時点で、地域に根ざしたビールブランドとして成長を遂げます。1992年にはカールスベルク・グループによって買収され、2010年に醸造所の建物を除いて、ブランド「コーニヒスバッハ」がビットブルガーに売却されました。2012年に醸造所は新しい所有者のもと、個人経営の形で再編され、ブランド「コーニヒスバッハ」は廃止され、ビールは新しいブランドコブレンツで販売されました。醸造所は2023年11月に再び破産手続きに入り、新たな投資家が見つからなかったため、最終的に2024年1月31日に閉鎖されました。
出典:WIKIPEDIA
コブレンツ醸造所は閉鎖となったものの、ビールブランドの商標権の取得契約を締結し、「コブレンツァー・ブロイ」、「コブレンツァー・ピルス」は今後も醸造され続けます。ブランドの権利をどの会社が取得したかは明らかにされていないようです。
出典:Getranke Zeitung
セント・メナス
聖メナス教区教会は、シュトルツェンフェルス地区にある歴史的なカトリック教会です。その起源は1100年に遡り、当初は「カペラ・セワルディ」として建てられました。1153年に初めて「カペラ」と記録され、その後1328年にカルトハウス修道院によって聖メナスの後援を受ける非常に珍しい礼拝堂となりました。1486年には教区に昇格しましたが、1819年に老朽化のため取り壊されました。
現在の協会は、1826年から1833年にかけてヨハン・クラウディウス・フォン・ラソーの設計で建設され、1833年5月5日に完成しました。その後、内外装や内部装飾がたびたび改修され、20世紀半ばに行われた典礼の再設計で内部が白塗りされるなどの大規模な変更が加えられました。1981年には、初期の壁画の一部が再発見されています。
出典:WIKIPEDIA(ドイツ版)セント・メナス
シュトルツェンフェルス城
シュトルツェンフェルス城は、ライン川沿いの戦略的拠点に位置する歴史的な城で、その起源は13世紀に遡ります。1259年、トリーアの司教領主アルノルド2世・フォン・イーゼンブルクによって防衛用の要塞として建設されました。この城は、ライン川を航行する船から通行料を徴収する料金所を守る重要な役割を果たしていました。
その後、城は何度か拡張されましたが、三十年戦争ではフランス軍とスウェーデン軍に占領されました。さらに1689年、九年戦争中にフランス軍によって完全に破壊され、廃墟となりました。1802年、城はコブレンツ市の所有となり、1823年にはプロイセン皇太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世)に贈られました。
皇太子は廃墟となった城をネオ・ゴシック様式の宮殿として再建することを決定し、著名な建築家カール・フリードリヒ・シンケルらの指導の下、ゴシック・リバイバル様式で再建が行われました。再建された城の主要部分と庭園は1842年に完成し、1845年にはヴィクトリア女王が訪問し、ゴシック様式の礼拝堂の落成式が行われました。この影響を受け、ヴィクトリア女王はその3年後にスコットランドのバルモラル城の建設を開始したとされています。
シュトルツェンフェルス城の内部工事は1850年に完了し、その後、プロイセン王族の夏の離宮として使用されました。第一次世界大戦後、城は国有となり、第二次世界大戦後には教育や文化施設として使用されました。現在は、ラインラント=プファルツ州が管理し、エルベラインラント地方文化局が運営しています。
2002年、ライン渓谷中流上部がユネスコの世界遺産に登録され、その一部としてシュトルツェンフェルス城も含まれています。この城は現在、歴史的建築やプロイセン時代の文化を感じられる観光スポットとして一般公開されています。
出典:WIKIPEDIAシュトルツェンフェルス城
マルクスブルク城
マルクスブルク城は、ドイツ・ラインラント=プファルツ州ブラウバッハの町を見下ろす丘の上に建つ中世の城塞です。その防衛機能を重視した設計から、王族の居住地というよりは、軍事的要塞としての役割を果たしてきました。ビンゲン・アム・ラインとコブレンツの間に点在する約40の丘の城のうち、マルクスブルク城は破壊されることなく現存する希少な城の1つです(もう1つはマウス城)。さらに、歴史を通じて一度も荒廃しなかった唯一の城として知られています。
起源と拡張
1100年、エップシュタイン家によってこの地に石造りの天守閣が建設され、1117年頃にはブラウバッハの町を防衛し、税関施設を強化するために拡張されました。
1283年、城はカッツエンエルンボーゲン伯エーバーハルトの所有となり、14世紀から15世紀にかけて高貴な貴族たちによって再建が繰り返されました。
1429年、カッツエンボーゲン伯爵家の男系が断絶した後、領地はヘッセン伯家に引き継がれました。この時期、城は大砲を配備するために改築され、外郭城壁には円筒形の砲台が追加されました。
戦争と荒廃
1806年、フランス皇帝ナポレオンが神聖ローマ帝国を崩壊させた際、城はナッサウ公爵の所有となり、監獄や傷痍軍人の宿舎として利用されました。その後、1866年の普墺戦争を経て、ナッサウ公爵領はプロイセンに併合され、マルクスブルク城もプロイセンの所有となりました。
ドイツ城教会と保存活動
1900年、マルクスブルク城は、1,000金マルクで「ドイツ城教会」に売却されました。この教会は、ドイツ国内の城を保存するために設立された民間団体であり、1931年以降、マルクスブルク城はその本部となっています。
第二次世界大戦とその後
1945年3月、マルクスブルク城はライン川の対岸からアメリカ軍の砲撃を受け、甚大な被害を受けました。その後、復元作業が行われ、今日では城全体が良好な状態で保存されています。さらに、城は2002年にライン渓谷中流上部の一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。
出典:WIKIPEDIAマルクスブルク
ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世
ヴィルヘルム1世は、プロイセン国王および初代ドイツ皇帝(カイザー)として、ドイツ統一を成し遂げた人物です。
ヴィルヘルム1世は1871年。兄フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の死去を受けてプロイセン国王に即位し、宰相オットー・フォン・ビスマルクと共に、プロイセン軍の近代化を進め、普墺戦争(1866年)や普仏戦争(1870年–1871年)を通じてドイツ統一を推進し、これによりプロイセンは北ドイツ連邦を中心にドイツ全体を統合することに成功しました。1871年1月18日、フランス・ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝として即位し、ドイツ帝国が正式に成立、ヴィルヘルム1世は統一ドイツの初代皇帝となりました。その保守的な政策や社会主義者への弾圧を理由に複数回の暗殺未遂に遭遇。特に有名なのは以下の2件です。
1.1878年5月11日:マックス・ヘーデルの襲撃
ベルリンでヴィルヘルム1世が馬車に乗っていた際、社会主義者と疑われたマックス・ヘーデルが至近距離から銃撃を試みましたが、ヴィルヘルムは無傷で助かりヘーデルはその場で逮捕されました。
2.1878年6月2日:カール・ノビリングの襲撃
ヘーデルの事件からわずか数週間後、カール・ノビリングがベルリンのアレー通りで再びヴィルヘルム1世を狙いました。この際、ノビリングは散弾銃で攻撃を行い、ヴィルヘルムは重傷を負い身体に多くの傷を受けましたが、最終的には回復しました。
これらの事件は、ドイツ帝国政府にとって社会主義運動を取り締まる口実となり、ビスマルクは「社会主義者鎮圧法」を1878年に導入、社会主義政党の活動を厳しく制限しました。この政策は、ドイツ国内の政治的緊張を高める一方、保守層からの支持を強化しました。暗殺未遂事件を乗り越えたヴィルヘルム1世は、「ヴィルヘルム大王」として称賛され、特に帝国統一の象徴的存在として記憶されています。彼の90年の生涯は、ドイツ近代史において重要な時代を築きました。
出典:WIKIPEDIAドイツ皇帝ヴィルヘルム1世
ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世記念碑
1867年から1918年にかけて、ドイツ語圏諸国で1,000を超える皇帝ヴィルヘルム記念碑が建てられ、皇帝ヴィルヘルム1世を追悼しましたが、最も有名で最大のものの1つは、コブレンツのドイチェスエックにある記念碑です。記記念碑は1897年、皇帝ヴィルヘルム1世を追悼し、ドイツ帝国の統一を記念する目的で建設されました。この地域は、もともと島と港があった場所を埋め立てて整備され、当時、記念碑の建設により「ドイチェスエック」という名称がこの地に結びつきました。1891年、彼の孫であるヴィルヘルム2世によって現在の場所が選ばれ、モーゼル川の河口にあった避難港を埋め立ててスペースを確保し、1897年8月31日、銅製の騎馬像がヴィルヘルム2世の出席のもとで除幕されました。
1945年、騎馬像はアメリカ軍の砲撃で破壊されましたが、その後1953年、記念碑は「ドイツ統一記念碑」として再利用され、統一への願いを象徴する場となりました。1993年には、破壊された像のレプリカが設置され、現在の形となっています。
記念碑全体は37メートル、騎馬像自体は14メートルの高さで、重さは約63.5トン。騎馬像には、皇帝を守護する天使が月桂冠と王冠を掲げる珍しい意匠が取り入れられており、騎馬記念碑の通常の形式と比べると珍しいですが、ベルリンの国立記念物にも見られます。また、記念碑の正面には、また、台座には皇帝の鷲が敵を攻撃する姿が描かれ、その上にはウィリアム2世が大きな文字で刻まれています。これは、皇帝ヴィルヘルム2世が称号を普及させよとしたものであると理解できますが、普及することはできませんでした。台座の上部には、コブレンツの詩人マックス・フォン・シェンケンドルフの詩「祖国への春の挨拶」の最後の1節「団結して中世を誓えば、帝国は決して滅びません」と刻されています。
この記念碑は、ヴィルヘルム1世の功績を称えるだけでなく、ドイツ帝国の結束とアイデンティティを象徴する存在であり、ライン渓谷中流上部の世界遺産にも含まれる一部として、歴史的価値と美的魅力を兼ね備えています。
出典:round-um-koblenz
ドイチェス・エック
ドイツのラインラント=プファルツ州コブレンツにある象徴的な場所で、ライン川とモーゼル川が合流する地点を指します。その名は、12世紀にここに設けられたドイツ騎士団 (Deutschordenskommende) に由来しています。
1216年、ドイツ騎士団がこの地に拠点を築き、「ドイチェスエック」という名前が広まりました。その後、騎士団の本部をケルンに移転しましたが、名称はこの場所に残りました。
ドイツ騎士団の本部移動の経緯
・1190年ごろ第3回十字軍の際にエルサレム地悪で設立されたドイツ騎士団は、当初はエルサレムやアッコンを拠点としていましたが、1291年にアッコンが陥落した後、聖地から退去する必要が生じました。
・聖地を離れた騎士団は、ヨーロッパに新たな拠点を求め、その中で神聖ローマ帝国内の主要都市であるケルンが一時的な本部となりました。この移動は、団の影響力を再構築するための戦略的な決定でした。
・ケルンを含む各地を経て、1309年にドイツ騎士団の本部はプロイセンのマリーエンブルク城 (現在のポーランド、マルボルク) に移転しました。この地は、騎士団国家の中心となり、その後何世紀にもわたり本部として機能しました。
出典:WIKIPEDIAドイチェス・エック
PM 15.30
クルージングが終了し、出発した乗り場へ戻りました。天候は曇り空で、一時的に雨が降ることもあり、パラソルの無いテーブル席に座っていた方々は室内に避難していましたが、私はパラソルの下で悠々と景色を堪能していました。ドイツにはお城が多いと聞いていましたが、ビンゲン・アム・ラインからコブレンツ間だけでも40もの城があるそうです。以前友人がワーキングホリデーでドイツに滞在していた際に訪ねたときのこと、内心お城を楽しみにしていた私に対し、何も知らない友人の第一声は「お城はもう見飽きたから、他の観光にしよう」というものでした。そのため、その時は1つもお城を見ることなく過ごしましたが、今回のクルージングでお城が点在するライン川沿いを眺めて、確かにこれだけ多くのお城を目にすると、「歴史や背景を知っている」場合はともかく、「とりあえず洋風のお城を見たい」という気持ちだけではすぐに飽きてしまうのかもしれないなと感じました。
また、予想以上にライン川の流れが速い!さらに、前日の雨の影響もあるとは思いますが、川と道路の水域が近い!一部では床下浸水になるのでは?と心配するような光景もいくつかありました。
天気はいまいちでしたが、クルージングの2時間は見どころが豊富で十分に楽しめました。コブレンツを訪れる際は、ぜひライン川クルーズを候補に入れてみてはいかがでしょうか。
ライン川クルーズ ギャラリー
エーレンブライトシュタイン要塞
PM 15.36
クルージングを終えた後、乗降場所から歩いてすぐのケーブルカー乗り場へ急ぎます。目的地のエーレンブライトシュタイン要塞の営業時間は18時まで。残された時間はあと2時間半です。ヨーロッパの夏時間では21時頃まで明るいので、もっと長く遊べる気分になりますが、日本とは違って飲食店を除く多くのお店や観光地は17時や18時で閉まります。もし日本でも日照時間が同じように長くなったら、営業時間もそれに合わせて延びて働く時間が長くなるのではないかと思っています。ヨーロッパのように18時頃でお店が閉まり、家族や友人と過ごす時間を優先できるようになれば、もっと充実した1日を送れるのでは、とも感じました。日本では「働かないこと=怠けている」といった価値観が根強いこともあり、このような変化がすぐに受け入れられるかはわかりませんが。
約6分ほどで対岸に到着しました。
ケーブルカーの車内は驚くほど空いていて、私以外にはカップルが1組乗っていただけ。列に並ぶこともなく、スムーズに乗ることができました。
エーレンブライトシュタイン要塞については事前情報が全くなかったため、まずはインフォメーションセンターを目指すことに。しかし、ここからが一苦労。案内板の支持通りに進んだのですが、とにかく敷地が広い。結論から言うと、最初に歩いたのは要塞とは逆方向。最終的には無事に要塞に到着したものの、通常のエントランスではない場所から入場してしまったため、迷路のような要塞内を彷徨う羽目に。しかも途中から降り出した、そこそこ強い雨の中半泣きになりながらの探索でした。
そんな私の苦労を順を追ってご紹介します。
PM 15.55
インフォメーションセンターに到着!…え?これがインフォメーションセンター?想像していたものとはまるで違う建物が目の前に。そして残念なことに、ここ、閉まっていて誰もいない…。
後から調べて分かったのですが、ここは簡易的なインフォメーションセンターで、本来のセンターは、最初に真っすぐ進んでいた駐車場の方にあったようです。でも、直前の案内板には「左へ」と書いてあったのに…困惑です。
案内板に従った結果、要塞からどんどん離れた散歩道に誘われてしまいました。気がつけば時間は迫っていて、要塞は18時閉館、ケーブルカーも17時半が最終運行。残された時間はあとわずかしかありません。
ライン・モーゼル・ブリック(Rhein-Mosel-Blick)
2011年の連邦庭園博 (BUGA) の際に、エーレンブライトシュタイン要塞前の高原が根本的に再設計され、植栽が行われました。この時、ラインラント・プファルツ州立公園によって巨大な三角形をした展望台が建設され、通路には「変遷の森」をテーマとした展示が設けられました。BUGAの終了後、展示室や一部の施設は解体されましたが、この展望台は残されました。
2019年には、このプラットフォームの名称を変更するコンペが行われ、「ライン・モーゼル・ブリック(Rhein-Mosel-Blick)」という名前になりました。
出典:ラインラント・プファルツ州観光情報(Rheinsteig.de)
後で調べてみて、これが展望台だったと知りました。この時は周囲に誰も人がいない上、建物が錆びたような印象だったので、スキーリフトの廃墟か何かだと思い込んでいました。
PM 16.10
整備された道を進んでたどり着いたのは、見覚えのあるケーブルカーの真下。左手奥に目指していたエーレンブライトシュタイン要塞らしき建物が見えましたが、「ここが目的地なのか?」「ケーブルカーの下を歩くのは危険ではないのか?」という不安がよぎります。それでも戻る気力も時間もなく、先に進みます。
要塞に近づくと左手にゲートを発見。中に入ると、そこはまさにエーレンブライトシュタイン要塞。目の前にそびえる高さ約25メートルの壁に囲まれたエリアに入った瞬間、ほっと胸をなでおろしました。しかし、これが大変な事態の始まりだったのです。
実は、このゲートは通常、関係者用で閉じられており、この時はたまたま開いていたために入れただけ。そのことに気づかないまま敷地内へ入った私は、道順や案内が見当たらない広大な要塞に迷い込むことになります。
エーレンブライトシュタイン要塞は「ヨーロッパで2番目に大きい要塞」として知られ、その広大な敷地とまるで巨大な迷路のような構造が特徴です。地図もパンフレットも持たず、案内板を頼りに歩きだしました。自由に探索できる設計が魅力ですが、通路が随所に広がっており、行列や決まった順路はありません。しかし、この自由さが逆に訪問者を迷わせます。防衛目的で築かれた建物だけに、高い壁が視界を遮り、どこに何があるのか全く見渡せません。行きたい方向がわからないまま進むと、戻るのさえためらうほどの広さに飲み込まれてしまいます。地図を持たずに訪れるとそのスケール感に圧倒されるばかりか、迷路の中を彷徨うような感覚に陥ります。無人のインフォメーションセンターが通常運転だと思い込んでいた私は、人がいる受付を探すこともせず、ただ気の向くまま歩き始めました。
サッカーフィールド並みの敷地
堅固な壁
要塞の壁にある縦長の穴は、要塞建築において「銃眼」(銃砲用の窓)や「射撃孔」と呼ばれる防衛設備の一部で、もともとこれらの穴は中世の弓矢の時代に採用されたものでしたが、後に火器(鉄砲や大砲)が普及するにつれて、その形状や配置が発展しました。縦長の設計は、兵士が穴の中で比較的自由に動けるようにしながら、射撃の角度を調整するためです。また、外部からの視線や攻撃を遮りつつ、内部からは広い視野を確保する目的もありました。
石工技術の壁
「左側の警備兵」
「左側の部隊」の意味??
エーレンブライトシュタイン要塞(Ehrenbreitstein Fortress)
エーレンブライトシュタイン要塞は、ドイツ・ラインラント=プファルツ州コブレンツに位置し、ライン川東岸の丘の頂上に建っています。その標高はライン川から約118メートルの高さで、古くから戦略的に重要な場所でした。
1.初期の歴史:
・紀元前4千年紀にはすでに人が住んでいたとされ、紀元前10世紀から9世紀にかけて最初の要塞が築かれました。
・紀元後3世紀から5世紀にかけてローマ人が要塞を築き、その後、8世紀から9世紀にかけて人々が住み始めました。
2.中世:
・約1000年頃、エーレンベルトという貴族が丘の上に城を建て、当初は「エーレンベルトシュタイン城」と呼ばれていました。この城は、トリーア大司教の所有物として1139年に初めて文書に登場し、その後拡張が行われました。
3.近世:
・1688年、フランス国王ルイ14世の包囲に耐えた後、要塞はその後も数回の戦争や包囲に直面しました。特に1794年から1799年のフランス革命軍によるコブレンツ占領中、要塞は3回包囲されましたが、フランス軍は成功しませんでした。1798年の第二次対仏大同盟戦争中、1年間の包囲によって要塞の守備隊は飢餓に苦しみ、最終的に1799年にフランス軍に引き渡されました。
・1801年、フランスと神聖ローマ帝国との間で結ばれたリュネヴィル条約により、フランス軍はライン川右岸から撤退を余技なくされ、ライン川左岸のフランス領からわずか数メートルにある要塞が敵に占拠するのを防ぐため、要塞は爆破されました。
4.19世紀の変遷:
・1815年のウィーン会議の結果、ラインラントはプロイセンの支配下に入り、プロイセン人は1815年から1834年にかけてコブレンツ要塞を再構築しました。
・コブレンツ要塞は、ジブラルタルを除いてヨーロッパ最大級の軍事要塞となり、最大で1200人の兵士を擁して防衛可能でした。
・要塞の実際の建築は、平和条約に基づいてフランスが1500万フランを支払い、1817年から1828年にかけて進められ、1834年に使用準備が整いました。
・1886年までにコブレンツは「重要性の低い」要塞とされ、1890年から1903年に解体された後、要塞と東岸のいくつかの小さな構造物が残り、1918年までライン川の渡河地点を防衛しました。
5.20世紀の使用:
・要塞はその現役時代、一度も攻撃を受けませんでした。第一次世界大戦後、要塞は歴史的・芸術的価値が認められ、解体を免れました。
・1919年以降、ラインラント占領中にアメリカ軍の司令部として使用されましたが、1923年にアメリカ軍は要塞を離れ、ヨーロッパでの最初のアメリカ占領が終了しました。
・その後、エーレンブライトシュタインはフランス軍に占領されました。
・第二次世界大戦中、要塞は文書や文化遺産の保管場所として使用され、その後フランス軍によって使用され、1947年にラインラント=プファルツ州に引き渡されました。
・1946年から1950年には難民キャンプとして利用され、その後、1950年代から1960年代の住宅不足時期には住宅として使用されました。1952年にはユースホステル、1956年には博物館がオープンし、1972年にはドイツ軍の戦死者を追悼する記念碑(Ehrenmal des Deutschen Heeres)が開設されました。
出典:WIKIPEDIAエーレンブライトシュタイン要塞
石が積んである内装が見えます
大きい通路に出られそうです
開けた場所に出たので、ここが正規の入口!と思ったのですが、そこにはフードコート的なものが2つほどある広場でした。この左側には野外ステージがあり、この日はドラムがマーチの練習をしていました。当日にイベントの夜にイベントがあるのかどうか覚えてないのですが、リハやっていたみたいです。
とりあえず進みます
・スレンブライトシュタインの5000年
・刑務所としてのプレ要塞
・要塞の顔
・要塞の大砲
・要塞への補給
・ビュッヒセンマヘレル
・ドイツ陸軍記念館、情報室
・ガード
・ヒネンガン
・逮捕
エーレンブライトシュタイン要塞は、19世紀にプロイセンが一部のエリアを囚人を収容する施設として使用し、刑務所としての機能を持っていたことが記録されているそうです。
当時は暗闇もしくは蝋燭の明かりで待機?
時間に余裕がなく素通り…
非常口が右手なのは理解した
ドイツ軍の記念碑
エーレンブライトシュタイン要塞に設置されたドイツ陸軍記念碑は、1972年にドイツ連邦軍の戦死者を追悼するために建てられました。ここの記念碑は、ミュンヘン出身の彫刻家ハンス・ヴィマーによって設計され、必要な資金は主に戦死した兵士の生存者、退役軍人、ドイツ連邦軍の現役メンバーからの寄付で賄われました。
記念碑には、鉄製のヘルメットをかぶった若い兵士が横たわる姿が描かれています。この兵士像は、戦争の悲劇がもたらす悲劇と若者たちの犠牲を象徴し、第二次世界大戦で使用されたヘルメットをモチーフにしています。彫像の規模は高さ約2メートル、全長約 4メートルで、要塞のラヴェリン(突出部)の外壁の一部に配置されています。記念碑には「平和、正義、自由のために命を捧げたドイツ連邦軍の兵士たち」という文字が刻まれたシンプルな石碑も設置されています。
1972年の設置以来、記念碑では毎年、ドイツ連邦軍で戦死、行方不明、または死亡した兵士たちを追悼する追悼式が行われています。この式典には、多くの元兵士、予備兵士、退役軍人、また伝統的な協会の代表者や国際的な連合国軍の代表団も参加します。出典:bundeswehr-de
展示場のような場所が見えてきました
オシャレな建物に見えなくもない
真偽のほどはわかりません
…詳細はわからない
展示用に20以上の駅が設置されている
PM 16.47
博物館に入ったものの、この時点で私は焦っています。この日が特別なのか観光客が少なく、通常、観光地では入場した場所がそのまま出口になることが多いものの、今回私は意図せず関係者専用の入り口から入るという特殊な入場をしたため、エントランスを知らないのです。ウロウロと敷地内を観光しながら歩き回りましたが、要塞は広いし、博物館やレストランなどの建物が点在しており、どこがエントランスか見当がつきません。非常口の緑の矢印に従って進んだものの、途中の広場に出てしまい、そこから先がわからない。ケーブルカーの最終便が17時30分であるため、それを逃したら、この人気のない場所に取り残されると考えると恐怖でしかありません。要塞の敷地が広いだけに、正規の入り口から入場していれば人数がカウントされ、退出が確認されない場合にはスタッフが探してくれるかもしれません。しかし、私は入場手続きすら踏んでいません。とにかく、これまで行っていない場所を速足で進み、なんとか出口を探します。
左手はエントランス!じゃないです
この坂を上って行きました
エーレンブライトシュタイン要塞での出口探し
ここから、傘が必要なほど雨が降っているため写真撮影をしていません。特に雨のせいというよりも、ケーブルカーの時間もあるし、そもそも出口がわからないので写真を撮っている余裕がありませんでした。道行く人に尋ねたいのですが、人影がほとんど見当たらず、広大な敷地と建物の間でどの方向に進むべきか見当がつかない状態に。建物には軒下もないので、雨の中どちらの方向に走るのかはとても重要。入場時に使った関係者口は、ケーブルカー乗り場の真下だったので、そこからどうにかたどり着けるかもしれないと期待し、ゲートに向かったのですが、そこは既に鍵が閉められており脱出不可。周りには誰もいないし、サッカーフィールドほどの広場を往復して時間だけが過ぎていきました。
野外ステージの近くを歩いていた老夫婦に出口を尋ねると、「真っすぐ行ってすぐ右に曲がる」と教えられました。実際にその道を進むと、右に曲がれる方向が3つもあり、どれが正しいのか分からずさらに混乱。突き当りの右手の坂を見てもエントランスらしきものは見当たらず。パーカー付きの防水服を着ていたものの、前髪はずぶ濡れ状態。再び広場に戻るも相変わらず人気はなく、「博物館には人がいるかも!」と向かった先にレストランが見えてきました。営業中でしたが、客はおらず、お喋りしているスタッフ(恐らくドイツ人)に、早口の英語で出口の場所を尋ねると、再び「真っすぐ行って右に曲がる」との案内。焦りのあまり、普段は英語が下手なくせに、極限になると考えるより先にスムーズに口から出た英語は我ながら不思議でした。平常心の時は上手く喋ろうとしてるのかも知れない。しかし、方向音痴の私には再度「右」が分からず大パニック。
その後、偶然見かけた3人組の後ろをついて行くと、ようやく出口を発見。なんとか予定の17時台のケーブルカーに間に合いましたが、正直もう一度エーレンブライトシュタイン要塞に行っても、一発で出口に行ける気がしません。帰りのケーブルカーでは、雨も強くなっていたため、素晴らしい景色は見れませんでした。行きのケーブルカーから写真を撮っていて良かったなと思いました。
滞在の振り返り
結果的に要塞内で過ごした時間は約50分。そのうち10分は出口を探しまわっていたので、展示物をじっくり見て満喫することはできなかったのですが、圧倒的な壁の高さや敷地の広さを体感できたのは良かったです。なお、ガイドツアーや音声ガイドはドイツ語とフランス語で提供されているようです。また、エントランスを出た先にインフォメーションセンターとショップがありますが、私は時間切れで立ち寄れませんでした(この時間では営業は終わっていたかも)。
エーレンブライトシュタイン要塞に観光を予定するのであれば、半日は時間を取ってゆっくり回ると良いと思います。ガイドツアーは英語とドイツ語があり、英語は事前予約が必要な場合が多いようです。
コブレンツ1日観光まとめ
朝10時、旧市街を地図を片手にのんびり散策スタート。気の向くまま行き当たりばったり歩いているうちに、13時10分にはライン川クルージングツアーに参加。船の上からいくつか古城を見れたし、ケーブルカーから眺めるドイチェスエックは、雨の影響で濁り水と澄んだ水の合流地点がはっきりわかる状態で見れたのも珍しくて良かったなと思います。
15時30分からはエーレンブライトシュタイン要塞を観光。広大な敷地と迷路のような構造の中で時間との闘いに焦る場面もありましたが、もう少し時間をかけて見られれば良かったなと少し心残りはありますが、またいつかの旅のお楽しみにもなったので良かったかなと思います。
17時30分、コブレンツ旧市街に戻りました。1日でこんなに観光名所を堪能するつもりはなかったのですが、結果的に充実した観光ができ、行動してみて本当に良かったです。
歩数:15,906歩
宿泊施設に帰宅後、宿ご自慢のネット環境で兄者弟者チャンネルを視聴しました。日本語検索「兄者弟者」ができないので「2BRO」で検索したらヒットしました。どんな些細なことでもグローバルに活用できることって大事だなと思いました。
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