森に佇むポツンと一城、孤高のエルツ城を訪ねて

ドイツ

~2024年5月30日から2024年8月20日までのヨーロッパ周辺青春旅行記~
2024年6月4日、ドイツのラインラント=プファルツ州に位置し、モーゼル川の支流エルツバッハ川の渓谷に囲まれた古代の森林地帯に佇む、850年の歴史を誇る美しいエルツ城に行ってきました。このお城は、ノインシュタイン城やホーエンツォレルン城と並び、ドイツ三大美城の一つとして知られています。険しい岩の上に建つその姿は、おとぎの国やRPGに登場するお城そのものでした。

エルツ城までの行き方(バス:コブレンツ→エルツ城)

コブレンツ駅のDB(ドイツ鉄道)の窓口で、エルツ城までの乗り換え案内を印刷してもらったので、A4用紙のプリントを片手にエルツ城を目指します。
アプリで検索して切符をオンラインで購入することもできるのですが、ドイツ滞在4日目の私は、まだドイツの交通事情やバス、改札のない電車の乗降車の利用について心配があったので、人がいる窓口で切符を購入しました。ネットで調べるよりも相談しながら手配することによる安心感もありますし。

ということで、当日の予定は、コブレンツ駅から9時40分のBus370番に乗り、ポーチスタジアム(Stadion Polch)で10時31分のBus360番に乗り換えて、エルツ城周辺に到着した後、歩くかBUS365番に乗るかを考えます。

コブレンツ駅前に大きなバスターミナルがあり、バス停Lでバス370番を待ちます。
※駅のプラットフォーム(番号)とバス停(アルファベット)を勘違いした時のお話は参考記事ご参照ください

9時40分
乗車したバスには行先と現在地がモニターに表示されていたので、安心して目的地に向かうことができました。このバスは私一人を乗せて走り出し、夏休み中だからか、それとも観光客にはあまり利用されていないのか、コブレンツを起点にした旅では、バスが貸し切り状態になることが多かったです。

バス370番のバス停留所:ドイツ鉄道
バス370番の時刻表:moovit

10時31分
まず、コブレンツ駅からスタジアム・ポーチでバス360番に乗り換えます。降りる際には、念のため乗り換え先のバス停が正しいかどうかを運転手さんに確認しています。街はずれの観光地へ路線バスで向かう際、田舎ではバスの本数が少なく、間違えて乗車した場合、バス停の間隔が広いためリカバリーにかなりの時間がかかります。(以前、イギリスのオックスフォードでバスを乗り間違え、高速道路を往復する羽目になり、2時間もロスした経験があります)。

この360番のバスはポルチマーケットを経由するため、賑やかな通りや教会、住宅街を通りながら地元の人たちの乗降が増え、地域の足として欠かせない存在だと感じました。このバスに乗って、8か所目のミュンスターマイフェルト高校のバス停で降ります。

バス360番のバス停留所:ドイツ鉄道 VMR ※Stadio, Polchは始発ではないです
バス360番の時刻表:en.mapy.cz

11時01分
約22分ほどバスに揺られ、ミュンスターマイフェルト高校のバス停に到着すると、降りた場所の向かい側に次の乗り換えのバス停がありました。バスの本数は少ないのに、ルートが多いため乗り間違えないように気を付けようと思っていたところ、ちょうど自分の乗るバスが先に来たので安心して手を挙げてバスを止めました。日本の文化とは違い、ヨーロッパはイギリスも含めて手を挙げてバスを止めるので、バスが来る度に前のめりになり、「こんなにウインカーに注目することある?」というくらいウインカーが点滅するのを見てバスが止まるのを確認します。時折、バスの前に出て止めている人も見かけますが。

バス365番のバスは、ひたすら一本道を走り続けます。窓の外には田園風景が広がり、大自然を満喫できるひとときです。電車でスピーディーに移動するのも良いですが、バスだからこそ味わえる、長閑な風景をゆっくりと堪能する楽しさもありますよね。

バス365番のバス停留所:moovitapp.com
バス365番の時刻表:VMR

11時22分
エルツ城のバス停365番に到着しました。陽気過ぎる看板に怯みましたが、ここでシャトルバスに乗り換えるか徒歩でエルツ城に向かうかを選択します。この日はお天気も良く歩くのも大好きなので迷わず散策を選びます。

DB:Koblenz Hbf → Burg Eltz, Wierschem ※電車、バスのルートです

ドイツの切符は色々と種類があるので自分にあった切符を購入するのが大事です。詳しい説明がEURO RAILの2022年9月30日のブログに書いてあるのでご参考までに。
EURO RAIL:ドイツ鉄道のチケットについて

エルツ城までのハイキング

エルツ城へ行くにはいくつかルートがあるのですが、私は行きは緑色のeasyルート(1,200m)で歩き、帰りは黄色のmoderateルート(800m)をシャトルバスで帰りました。

参照地図:Burg ELTZ公式サイト

11時25分
バスの停留所を背に歩き始めます。道中には「エルツ城はこちら」という案内サインがあり、ほとんど一本道なので迷う心配はありません。天気が良い日は、緑のアーチから降り注ぐ木漏れ日が心地よく、ただただ開放的な気分が盛り上がります。

11時28分
歩き始めて数分で、遠くにエルツ城が見えてきました。本当に山の中にポツンと佇んでいるのに、圧倒的な存在感!気分が一気に上がり、その美しいお城を目指してさらに足を進めます。

しばらく山道をアップダウンしながら歩きましたが、その後、なかなかエルツ城が見えて来ません。途中、前を歩いていた家族連れが立ち止まって自然を楽しみ始めたため、先頭をき歩く私は「道は間違えることはないけれど、あとどれくらいで着くのだろう…」と少し不安になりました。

ようやく開けた場所に出ると、目の前にお城らしき塔の先っぽが見えてきました。後ろから追いついてきた男性がその塔を指さしてドイツ語で何か話かけてきたので、「あれはエルツ城?」とさっき見たお城にしては高さが低いなと半信半疑になりつつも、今まで歩いてきた道のりを考えると、まだうねうねと30分くらい歩くのでは?と思いながら、男性に笑顔で手を振って先を急ぎました。山道は自分の位置間隔を失うこともあり、エルツ城との距離感が完全にわからなくなっていました。
結局、その塔の先っぽはエルツ城ではなく、「トルッツエルツ城(別名:バルドゥインエルツやバルデンエルツ)」と呼ばれる廃城跡でした。

11時43分
再びエルツ城が見えてきました。横から見ると、このお城が本当に丘の上に建てられているのだと実感します。おとぎ話やRPGでイメージするお城そのものが目の前にあるのが、少し不思議な気もしますが、よく考えれば、お城が先に存在し、その後におとぎ話やRPGが生まれたので、似ているのは当然ですよね。

エルツ城到着

エルツ城(2024年11月1日時点)
営業時間:3月24日~11月1日 9時30分~17時(城門が閉まる時間)
入場料:大人€14.00
公式サイト:BURG ELTZ https://burg-eltz.de/en/homepage

11時45分
エルツ城北側の城門に到着しました。城門に通じるこの橋は、中世では跳ね橋で守られていました。
出典:Burg-Eltz The Castle

午前中に到着したからなのか、さほど混雑していなかったのですが、帰る時にはぞろぞろと人も増えていました。

エルツ城の城門のアーチ中央に刻まれた「1563」の数字は、この年にエルツ城が大規模な改築を行ったことを記念しています。この改築は、エルツ家がルネサンス期の影響を受けて城を拡張・強化した時期にあたります。もともと中世の防衛要塞として築かれたエルツ城は、この時期に居住性を向上させるための建築様式の導入や内部構造の改修が行われ、現在の姿に近づきました。
この年号は、城の歴史的な転換点を示すものであり、エルツ城が中世からルネサンス期にかけて進化してきた証として、城門に刻まれています。
よく見ないと気づかないですが確かに刻まれていますね。

エルツ城
おそらく12世紀初頭に、エルツバッハ渓谷を通り、モーゼルケルン近くのモーゼル川と肥沃なマイフェルトを結ぶ交易路上に建てられたと考えられています。エルツバッハ川は城の三方を流れており、高さ70メートルの楕円形の岩頭にそびえ立っています。エルツ城の建築は場所が許す限り500年間かけて上向きに建設されており、高さ35メートルに及ぶ8つの塔があります。8つの塔は、3つの家計(ルーベン家、ローデンドルフ家、ケンベルク家)により共同で維持されてきましたが、その役割に応じてそれぞれ名称が異なります。1792~1794年、エルツ城はフランス革命軍によって一時的に併合されますが、1815年にエルツ=ケンペニヒがエルツ城の唯一の所有者となっています。1944年には、当時のエルツ伯爵はクロアチアに住んでおり、エルツ城には毎年数週間しか滞在しなくなり、19世紀末頃には居住環境としての利便性が減ったため、完全に人が住まなくなったわけではないけれども、現在では博物館や観光地として維持されています。

【3家計について】
「金獅子のエルツ」エルツ=ケンペニヒ
ケンペニヒ家は金色の獅子を家紋に使用しており、この金の獅子が家系のシンボルとして知られています。堂々とした獅子の姿は王権や権威を象徴し、家名の一部として「金獅子」が使われるようになりました。

「銀獅子のエルツ」エルツ=ルーベナハ
ルーベナハ家は銀色の獅子を家紋に持ち、この獅子が家系の象徴です。銀色の獅子は気高さや高潔さを表し、家系の象徴として「銀獅子」という呼び名が用いられるようになりました。

「水牛の角のエルツ」エルツ=ローデンドルフ
ローデンドルフ家は水牛の角を家紋に採用しており、力強さや勇敢さを象徴しています。この特徴的な紋章が家系を表すシンボルとなり。「水牛の角」という名称で知られるようになりました。

【8つの塔について】
1.Kempenicher Turm(ケンペニヒ塔)
 防御用の塔で、見張り台として使われ、周囲の監視を行った
2.Platteltz(プラッテルツ塔)
 防御用の塔で、外部からの侵入を防ぐために設けられた
3.Rodendorfer Turm(ローデンドルフ塔)
 防衛に加え、物資の保管場所としても機能していた。
4.Rubenacher Turm(ルーベナッハ塔)
 居住塔で、城の主要な住居部分として使われていた
5.Wierschemer Turm(ヴィアシュマー塔)
 宿泊や住居として利用され、家族や重要な客人のためのスペースがあった
6.Ursula Turm(ウルスラ塔)
 家族の住居スペースとしての役割を持ち、日常生活に利用された
7.Brunnen Turm(ブルンネン塔)
 井戸があり、城内への水の供給を確保するための塔
8.Baldeneltz(バルドゥインエルツ塔)
 攻撃や防御の拠点として、また武器庫としても使用された塔

【その他施設など】
・Goldsmith’s House(金細工職人の家)
・Remisenbau(厩舎・馬車置場)
 主に補助施設として配置されている主要な塔とは別の建物で、馬車や馬が補完されていた
・Zwingeranlagen(ツヴィンガー施設)

出典:
WikipediA
Burg-Eltz The Castle

1.Kempenicher Turm(ケンペニヒ塔)

ケンペニヒ塔は、エルツ家のケンペニヒ家系によって1150年~1660年に建設されたとされています。

もともとは城の防衛用の塔として設計され、城内で最も堅固な塔の一つであり、外敵からの攻撃を防ぐための防衛拠点としての役割を持っていました。その後はエルツ=ケンペニヒ家系の居住空間としての機能も果たしており、塔内部には各階に異なる部屋が設けられ、寝室や生活スペース、作業場などがありました。現在では、観光客が見学できるエリアの一部となっており、塔内の建築様式や中世の生活様式を垣間見ることができます。
2024年6月時点でのガイドツアーはケンペニヒ塔からはじまりますが、以前はルーベナッハ塔からツアーがはじまっていたようです。近年の改修やガイドルートの再編成の一環として変更されており、来訪者が城の歴史や防衛機能をよりわかりやすく体験できるように工夫されているそうで、歴史を伝えていくというある種の使命感があるようにも感じられました。

エルツ城の現当主の伯爵が城を案内している動画Link:
https://burgen-schloss.info/eltz/
※実際の城内ツアーで訪れる部屋が紹介されています

2.Platteltz(プラッテルツ塔)

プラッテルツ塔は、正確な建設年については不明ですが、塔の名称や役割から、ほかの塔と同じく15世紀後半から16世紀前半にかけてに建てられた可能性が高いと考えられています。

この塔は、特に敵の動きを監視するために設計されたとされ、塔の上部からはエルツ城を囲む渓谷や森林を見渡すことができるため、当時の戦術的な防衛拠点として重要な位置にありました。この塔も他の塔と同様、居住スペースを兼ね備え、駐屯兵の休息や武器保管の機能も備えていた可能性が高いです。

プラッテルツ塔の全体写真がなかったのですが、写真左手前がケンペニヒ塔で、その奥の煙突があるクリーム色の塔がプラッテルツ塔です。

3.Rodendorfer Turm(ローデンドルフ塔)

ローデンドルフ塔は、エルツ=ローデンドルフ家系によって1470年頃に建設されたとされています。

フィリップズエルツによって建設された10階建てのこの塔は、ローデンドルフ家の土地にちなんで名づけられ、他の塔と同様に防衛と居住の目的を兼ね備えて設計されました。ローデンドルフ塔の主な役割は、家族の住居としての機能と城内の安全確保であり、その構造はその時代のゴシック建築様式が特徴です。内部には居住スペースや暖炉が備えられた部屋、礼拝室などが配置され、居住機能にが重視された設計となっています。最も古い部分は、後期ゴシック様式のアーチ型の旗ホールで、おそらく元々は礼拝堂として使用されていたもので、1520頃に完成しました。また、この塔の外観には、ローデンドルフ家の家紋である水牛の角が刻まれています。

参考:navicup.com

4.Rubenacher Turm(ルーベナッハ塔)

リューベナハ塔は、エルツ=リューベナハ家系によって1472年頃に建設されたとされています。

この塔は、居住スペースと防衛機能を併せ持ち、エルツ家の一員であるリューベナハ家のための住居エリアとして使用されていました。塔には、居住空間や窓、射撃孔が設けられており、戦時には防衛用の砦としても活用されました。また、リューベナハ塔には、城内の他の塔との連携が取りやすい構造が採用され、城全体の防御力向上に寄与した重要な位置にあります。
2024年6月時点では、エルツ城のガイドツアーはこの塔からはじまり、入口を入るとすぐに盾や剣、クロスボウなどの武器や防具が展示されています。写真撮影は禁止なのですが、現在はYoutubeや公式サイトにも沢山写真が公開されています。

写真:左がリューベナハ塔でツアーの入口で、時計回りにウルスラ塔、ブルンネン塔、バルドゥインエルツ塔、右がケンペニヒ塔

5.Wierschemer Turm(ヴィアシュマー塔)

ヴィアシュマー塔は、正確な建設年については不明ですが、塔の名称や役割から、ほかの塔と同じく15世紀後半から16世紀前半にかけてに建てられた可能性が高いと考えられています。

6.Ursula Turm(ウルスラ塔)

ウルスラ塔は、エルツ城の中でも比較的後期に増築された塔の一つとされています。詳細な建設年についての記録は少ないものの、15世紀後半から16世紀にかけて建設が進められたと推測されています。当時の増築計画の一環として居住機能と防衛機能の両方を持つように設計されており、家族の生活スペースとしても使用されました。また、エルツ城の防御構造の一端を担っており、城内への侵入経路を監視できる役割を果たしていたと考えられています。

7.Brunnen Turm(ブルンネン塔)

ブルンネン塔は、エルツ城の中で特に重要な水源を守る役割を持つ「井戸の塔」です。建設されたのは15世紀後半とされ、居住空間だけでなく、防衛面での強化も重視されました。この塔には深い井戸が備わっており、城が外敵に囲まれた際でも水の供給が途絶えないよう設計されていました。井戸は城内で唯一の水源であり、当時の防衛戦略において極めて重要な役割を担っていました。また、塔の内部は居住や貯蔵庫としても利用され、城内生活に不可欠な役割を果たしていました。

8.Baldeneltz(バルドゥインエルツ塔)

バルドゥインエルツ塔は、1330年代に、トリーア大司教であるバルドゥインが建設を指示し、城を攻撃する際の拠点として機能させました。

バルドゥインエルツ塔は、城の外部に位置しており、防衛のために設けられた塔で、エルツ城の防御線を強化するための重要な役割を果たしていました。エルツ城から230メートル北、標高360メートルの小高い丘に位置するコノシロは、モーゼル地方でのエルツ紛争(1331-1337年)中に、トリーア大司教バルドゥインによってエルツ城を包囲するための拠点として建てられたもので、面接はわずか30×25メートルほどと非常に小さいものです。現在も高さ10メートル以上の塔といくつかの基礎部分が残っています。

バルドゥインはモーゼル地方での支配力を拡大しようとしましたが、エルツ城やその近隣の領主たちが強固な防衛同盟を結んで抵抗。エルツ城への直接攻撃が失敗したため、1331年にトルッツエルツ城を建設し、さらに翌年には他の同盟城へ対抗するためにラウシェンブルクも築きました。この城は急ごしらえで造られ、現地の小石と協力な粘土モルタルが使用されたため長期の耐久性には欠けましたが、和平条約によってその存続が認められました。
出典:Wikipedita The Free Encyclopedia

Goldsmith’s House(金細工職人の家)

金細工職人の家は、ルーベナッハ塔の一部に当たり、1330年代に建設されました。

城門をくぐってすぐの金細工職人の家は、かつては金細工の制作や修理の場として使用され、城内の貴重品や装飾品の保管や修復も行われていたと言われています。現在はその1階部分がお土産屋になっており、剣やクロスボウ、盾などの武具の玩具や中世騎士のフィギュアが所狭しと並んでいます。自分用のお土産として、喉から手が出るほど欲しかったのですが、以前ニュージーランドからシンガポール経由で日本に帰国する際、重みのあるナイフ風のレターオープナーを手荷物に入れたまま搭乗し、シンガポール空港の手荷物検査で止められた苦い経験が脳裏をよぎりました。もちろん購入したものをスーツケースに入れてしまえば解決なのですが、これから3ヶ月も持ち歩くのはちょっと…と思い、欲しい気持ちをぐっとこらえました。

Remisenbau(厩舎・馬車置場)

レミセンバウは、厩舎・馬車置場1157年代に建設されました。

城内の居住や防衛に関わる主要な塔とは別の建物で、馬車や馬が保管され、家族や来訪者の交通手段を支える役割を果たしていました。エルツ城の内部エリアの一角に位置しており、現在は軽食を提供するUnterschänkeというレストランと、トイレになっています。

Tripadvisot:Unterschänkeレビュー

Zwingeranlagen(ツヴィンガー施設)

ツヴィンガー施設は、城の防御システムの一部として設計され、15世紀に建設されたと考えられています。

ツヴィンガー施設は、エルツ城の外郭に位置し、攻撃者が本城に近づく前にその侵攻を妨げる目的で配置され、最初の防衛ラインを形成する役割を果たしていました。2つの塔は、主に防衛と監視の役割を果たすために設置されており、恐らく、塔の高い位置からは矢や投石器などの武器を使用して侵入者を遠くから撃退することができたでしょう。
エルツ城を巡る唯一の軍事戦闘は、1331年から1336年にかけて発生しました。領地の拡大を目指していたトリーア大司教バルドウィンに反発したエルツ家をはじめとするモーゼル川沿いの貴族たちとの間で繰り広げられた戦争は激化し、バルドゥイン司教はエルツ城の拠点を取り囲むためにバルドゥインエルツ塔を建設し、エルツ家に対抗するための拠点として使用しました。現在でも、エルツ城の北側の外側にその城壁が残っています。2年に及ぶ攻囲の末、最終的に戦争は終結し、バルドゥイン司教は領地を拡大し、エルツ家は一時的に敗北したものの、その後城代として任命され、現在に至っています。

参考:navicup.com

エルツ城ギャラリー

ガイドツアーはここで終了となって出てきます。所要は1時間くらいだったと思いますが、当日、現地でツアーを申し込みました。ほとんどドイツ語のツアーで3回に1回は英語のツアーでした。塔と塔は内部で繋がっていて、石造りの階段を上ったり下りたりするので、正直自分が今どこにいるのかわからないくらい迷路になっています。ここに3つの貴族と使用人で100人くらい居住していたことを考えると、当時は山の中の1つの町、もしくは人里離れた国のようなものだったのかも知れませんね。

金細工職人の家の2階にあるカフェレストランに行きました。テラス席(Goldsmith’s House(金細工職人の家)タブ参照)もありますが、満席だったため屋内の席に陣取りましたが、最初から最後まで私だけという謎の貸し切り状態でした。料理は、特にここならではの特徴的なものはなく、ケーキやスイーツなど軽食がメインのようだったので、記録的な円安(€1=\170)だったこともあり、フライドポテトとレモンスカッシュ風のジュースを注文。もう1件のレストランもあるのですが、並びそうだったので、すぐに座れる場所を選びました。

エルツ城からの帰り方(シャトルバス→バス→電車)

一通り城内を歩き回ったので14時22分のバスに乗るべくエルツ城を後にします。

来る時はバス停から歩いてエルツ城まで行きましたが、正直、城内を歩き回って足も疲れていたので、帰りはシャトルバスに乗ることにします。巡回のシャトルバスは時間がわからなかったのですが、シャトルバス乗り場で待っていると、わりと直ぐにワンボックスカーがやってきました。片道€2.00の現金払いです。

14時過ぎにWierschem Burg Eltz Aのバス停に到着し、14時22分発の365番のバスを待ち、Hatzenport Bfに向かいます。

バス365番
ルートと時刻表:VRM
ルートマップ:moovit

電信柱のすぐ左横にある屋根のある建物が、Hatzenport Bfのバス停です。バス停の目の前がHatzenport駅なので、電車を使ってエルツ城に行く人は大抵この駅を利用するんだと思います。私は行きはバスを乗り継いだので帰りだけこの駅を利用しました。
駅は誰もいない無人駅。通りを歩く人もいない静かな場所でそっと電車が来るのを待っていましたが、時間が止まったような感覚がなんだか心地よかったです。

エルツ城のトリビア

「エルツ」の名前の由来
周囲を流れるエルツバッハにちなんでエルツと名づけられました。語源はおそらく古高地ドイツ語の「エルス」または川に特有の黒いハンノキのことを「エルゼ」と呼んだことに由来。ローマ人はこの川を「アリソンティア」と呼びましたが、おそらく古代ケルト語の語根を指します。

「エルツ城の切手」
城シリーズ(1977年から1982年)の一環として、エルツ城を描いた40ペニーの郵便切手がドイツポストから発行されました。

「愚か者の頭」
エルツ城の騎士の間、エルツ騎士団の会議室の壁に道化師の頭があります。中世の愚か者には悪影響を恐れることなく何でも発言することが許されていたため、彼らは言論の自由を擁護します。同時に、中世の人間観では知恵と愚かさ、美徳と悪徳は常に非常に密接な関係にあるため、自分自身をあまり真剣に考えすぎないように警告しています。

「沈黙の薔薇」
沈黙の薔薇は騎士の間と、ルーベナッハの寝室にある大きなベッドの天蓋にあります。それは、許された言葉が部屋から出てはいけないという約束を象徴していました。

エルツ城公式:Burg-Eltz.de

エルツ城の旅の感想

9時40分にコブレンツ駅のバス停から出発し、エルツ城に到着したのは11時45分。片道約2時間のバス旅です。数日前に挑戦したニュルブルクリンクへのバス旅とは違って、乗り換えのバス停も分かりやすく、乗り継ぎ時間も短かったため、今回はスムーズに行くことができました。エルツ城も混雑していなかったため、ガイドツアーを含め、比較的スムーズに観光できたんじゃないかと思います。ただ、現地で何か食べようと思っても、食事は2箇所のレストランのみで、お昼時は混雑しているため、一人でゆっくり出来るところは少ないという印象でした。私は帰りの時間を気にして軽食(フライドポテト)だけにしましたが、ゆっくりできるのであれば、レストランでお城から見る景色を楽しみながら食事するのも楽しそうです。

訪問時の服装についてですが、ハイキングで山道を歩かない場合でも、お城は山の斜面に建っているため坂道が多く、城内のガイドツアー中は狭い階段をぐるぐる上り下りする場面もあるので、動きやすいスニーカーや登山靴などスポーティな靴をおすすめします。

私もエルツ城に訪れた際には、その歴史をよく知らないまま見て回ったのですが、事前にその歴史を知っておくと、観光が何倍も楽しくなると思います。少しでも私のブログが皆さんの参考になれば嬉しいです。

お役立ち情報リンク

エルツ城に関する歴史などのリンクです。

・エルツ城公式サイト:BURG ELTZ
 エルツ城の歴史やエルツ家について、エルツ城の営業時間・チケット情報など写真付きで丁寧に案内されています。宝物庫に保管されている装飾品や銃などが写真付きで1点1点詳細つきで掲載されています。

・NATIONAL GEOGRAPHI:エルツ城の内部
 2024年4月26日に公開されたナショナルジオグラフィックが提供しているエルツ城の記事です。礼拝堂や寝室などガイドツアーでしか見られない内部の美しい写真と共に数行のコメントがあります。

・WIKIPEDIA:ドイツ版のエルツ城
 日本版よりも情報が多いです。ドイツ語ですがGoogle翻訳で日本語に変換すればOK!

その他

気になる交通費ですが、私はドイツのVRM「GB Targeskarte」(グループ日帰りチケット)を€26.10(約4,450円)で購入しました。このチケットは、VRMエリア内のバスや電車が1日乗り放題で、最大5人まで一緒に利用できるため、複数人で使うとお得です。今回は1人で利用しましたが、ドイツ滞在2日目で、特に乗り継ぎの多いルートでは、電車やバスのチケットの購入方法が分からずに乗り過ごすリスクもあったので、この1枚で自由に行動できるという点が安心でした。このチケットのおかげで、エルツ城のシャトルバス以外はバスも電車もこれ1枚で済みました。また、Hatzenport駅が無人駅だったため、この切符を持っていて助かりました。
その後の旅では、慣れてきてオンラインチケットも購入するようになりましたが、日本と違って常にネット環境が気になります。特に、オンラインチケットはネット接続がないとQRコードが読み取れない場合もあり、今回の3ヶ月の旅では乗車券の確認には特に気を使いました。この話については、また別のブログで。

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